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2013年03月31日

尊敬する人?


Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8

就活で「尊敬する人は?」とか訊かれたりするんだね。
それって、何かを成し遂げた「偉い人」の個人名を答えるんだろうな。「田中さん」とかじゃなくて。
尊敬に値する人は、もちろんたくさんいるけど、僕が一番尊敬するのは、こんな人だ。

 ・・・

とりたてて取り柄があるわけじゃない。

自慢できるような学歴もなければ、
人並み外れてスポーツができるわけでもない。
人を感動させるような歌は歌えないし、
目を見張るような絵が描けるわけでもない。

毎朝、工場に行って、機械を組み立て、
仕事を終わらせて、部屋に帰る。
毎日一人で、手を合わせて「いただきます」と言って、
晩御飯を食べられる人。

他人と比べたりしない。
他人を羨んだりしない。
自分を卑下したりしないし、
他人を蔑んだりもしない。

自分が一人でちゃんと生きていることに、誇りを感じて、
毎日、静かに暮らしている。

そんな風に生きられている人が、世界にどれだけいるだろう?

そういう人に、僕は、なりたい。
 
 

2013年03月22日

僕らに必要なこと


Nikon D700, AF Nikkor 50mm f/1.4D

ま、ご存知の通り、僕はあらゆることに才能がない。

そのことは自分でもちゃんと理解しているつもりなんだが、改めてそれを実感するとかなりガックリくる。
分かっているはずなのにね。まったく。

ずいぶん昔のことだけど、知り合いの女の子が、「わかっているのに、鏡を見るたびにガッカリするのよね」って言ってたけど、それに似ているな、と思う。

その子がそういっているのを聞いた時、「分かるよ」とも言えないし、「そんなことないよ」とも言えなくて、どう答えたらイイかわからんかった。

でも、今やったらどう答えたらいいか分かるな。

「確かに、アカンとこもいっぱいあるけど、それも含めてめっちゃイイ感じやで。」

僕らに必要なことはそういうことなんだと思う。

2013年03月15日

諦める事は諦めない事より難しい 【再】


Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
 
 
前に書いたことだけど、バラバラに書いたので、1 つにまとめておこうと思って。
まとめ損なっているところもありそうだけどね。

・・・

「諦めないこと」が素晴らしいように言われることが多いけど、諦める方が余程難しい。

よく「オレ、簡単に諦めちゃうんだよね」なんていう人がいるけど、それは「諦めてる」んじゃなくて、単に「努力するのを止めた」だけだったりする。

努力するのは止めたけど、心のどこかでは「たなぼたで手に入らないかなぁ」なんて思ってる。それって、諦めてない。

「諦める」っていうのはそんな生半可なことじゃない。
望むものは自分に力ではもう手に入れられないことを認めることだ。

つまり自分の能力の足りなさを正面から受け止めて、自分が劣っていることを認める必要がある。
それはとてもキツい。
自分を客観的に見つめ、分相応を知る。
それが諦めるということの本質だ。

努力するのをやめただけ、というのとは全く違う。
自分ががんばってできること、がんばってもできないこと、それをはっきり見つめ直すことだ。

自分ががんばってできることをやってもできなかったことは、仕方ない。
自分でできることをすべてやったかどうかを点検し、これからできることがないかについても検討して、それでも無理ならば、それが自分の器だと受け入れる。

ありのままの自分を受け入れるのは難しいこともあるが、それができれば、きっと救われる。
自分は精いっぱいやった。自分は自分だから。これでいいんだし、こうなるようになってるんだ、って。


下に引用したのは、「音羽屋」さんと言う方から、僕のブログに頂いたコメントです。
以下、音羽屋さんのコメントをそのまま引用 (引用許可頂いています)。


***引用ここから***

音羽屋的。には実は枕詞というかサブテーマがありましてですね、ご存じかもしれませんが、「諦聴諦聴」というのがそれです。

「諦聴諦聴音羽屋的。」
(yahooで諦聴諦聴を検索するとその記事がトップに出てくるw)

これって、釈迦の言葉で、仏説観無量寿経というお経の一説なんです。和訳すると、「あきらかにきき、あきらかにきけ」というふうになります。

おもしろいなぁと思うのが、「あきらか」と読む「諦」という字は、ここでもあるとおり「あきらめる」とも読むんですよね。

つまり、自分があきらかになる=自分の器がわかる=ありのままの自分を受け入れる、という見方が出来ると思うんですが、すなわち、あきらめることとあきらかになることはイコールなのではないかと。

僕はそれをこのお経の一説に出会って考えるきっかけをもらいましたが、hirobotさんがそういう背景なしに「諦」という概念を同じように受け止めておられたことに正直驚きと感動があります。

本当に諦める。自分ではどうしようもないことを悟る。そこで初めて自分というものがあきらかになる。

これって、真に自分らしく生きるためのスタートラインなのではないかと思うのです。そして、自分含め、いろんなことを諦めきれずにもがきながら、結局そのスタートラインに立つこともかなわぬままに死んでいくのが人間の悲しさなのかなと。。。

投稿者: 音羽屋 | 2010年06月11日 09:19


 
***引用ここまで***
 
以前にも音羽屋さんには、僕が気付いたことを日記にしたときに、「それは南無阿弥陀仏の世界観ですね」と教えていただいた。なんとなく形を取りつつあった僕の考えが、明確な姿をして目の前に現れた瞬間だった。

今回のコメントでも、僕の考えていたことは、何千年も前に既に釈迦が考えていたのだ、と気付かせていただいた。すとん、と腑に落ちる、とは、このことだ。

「諦めること」というのは、「努力をやめること」とはまったく違って、「自分にとって都合の悪いことにも目を開き、心を開いて、自らの身の丈を明らかに見て、自らの限界を知ること」で、これは本当はとても厳しいこと。

身の丈を知る、それは傲慢になっても、卑屈になっても、上手くいかない。
自分にできることを知り、同時に、自分にできないことを知る。
それは、限界まで行かなければ分からない。

諦める前に自分は本当に限界まで攻めているか?
逆に、見たくないものを見ないために、ただ諦めることをしていないだけではないか?

常に自分に問いかけることができて、初めて身の丈を知り、「諦める」ことができる。
それは、まさに「明らかに見る」ことなんだと思う。


  ・・・

僕はもともと他人から好かれるタイプではない。

いろいろと努力はしてみたけど、まぁ、無駄だったね。どれも。
基本的な性格に問題があるのだろうけど、それを無理に繕っても結局上手く行かない上に、ストレスが溜まる。いいこと無い。

“他人から好かれる” ことは、努力してどうこうなるものではなくて、その人の行動や持って生まれたものの総体として、結果的に他人から好かれるわけだから。

もちろん、かといって、自分勝手に生きるんだ、っていうわけではなくて、“他人から好かれることを目的として行動しない” ということです。

自分は他人から好かれていないな、と感じても、そのことについて自分を責めすぎないようにしよう、ということ。自分に悪意があってやったなら問題だけど、善意で行動して、そのときはそれが精一杯のことで、結果的に嫌われたのだったら、それはそれで仕方ないことだから。

とにかくそのことで自分を責めすぎてはいけない。そういうことです。

  ・・・

僕の経験上、「やればできる」とか「願いはかなう」とか間違ったことを言うから、うつ病患者がどんどん増えるんだと思う。


たとえば、他人となじめないこと。
たとえば、自分が理想の自分とは違うこと。
たとえば、他人からの評価が低いこと。

そういうことで自分を責めてはいけない。

「どうして自分はこんなことができないんだ」なんて自分を責める必要なんてない。
誰もが超一流になれるわけではない。超一流の人が超一流でいられるのは、そうでない圧倒的多数の人がいるから。

人それぞれには器があり、努力してもできないことはできない。
自分のできる範囲で、できることをやればいい。
他人様の評価は、自分ではコントロールできない。
自分ができる以上のことはできないんだから、やれるだけやって、他人様の評価が低くてもそれはどうしようもないし、悩んでも仕方ないこと。

  ・・・

人気者になんてならなくていい。
その他大勢の一人でいい。

自分ができることを、自分のベストでやれていれば、誰にも恥じることはない。

ずっと上を向いて生きている必要なんてない。
でも、ずっとうつむいて過ごすこともない。
充分頑張ってる。
今のままでいいんだ。
そう、それでいいんだ。


南無阿弥陀仏 - 阿弥陀仏の思し召し通りに

導きに従って生きれば、無理なくに生きて行けいるようになっている。
つまり、無理なく生きるようにすれば、すなわちそれは導き通りの生き方になっている。
水が沢を流れ下るように、自然とそうなるように出来ている。

僕が、以前、モータースポーツの師匠の一人、田中“極楽堂”稔 氏から教えてもらった言葉、今になって分かった。

 ***

丁度良い

おまえはおまえで丁度良い
顔も体も名前も姓も
おまえにそれは丁度良い

貧も富も親も子も
それはおまえに丁度良い

幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度良い

歩いたおまえの人生は、
悪くなければ、良くもない
おまえにとって丁度良い

地獄に行こうと、極楽に行こうと
行ったところが丁度良い

卑下することもない

上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度良い

仏様と二人連れの人生
丁度良くないはずがない。

南無阿弥陀仏
 
 ***

2013年03月11日

今、目の前にあるもの


Pentax K-01, smc Pentax DA40mmF2.8XS  
 
  
「過去には思い悩む余地はなく、未来は思い悩むだけ無駄だ。
大切なことは、今日が最後の日だとしたら、自分が本当にしたいことは何かを見失わないことだ。」
 
by 俺
  
俺、意外といいこと書くやん(笑)。
でも自分で書いておきながら、この気持ちをすぐ忘れる。
それがイカンね。




作者 “hirobot” について


音楽と写真とモータースポーツを愛する翻訳屋です。


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