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代わりがいる/いない、と、価値がある/ない、とは全然違う。


Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8

「俺がいなくたって、社会は回る」って?
うん、確かにその通り。

たいていの場合、最初は困ることはあっても、その内なんとなく代わりが出来る人が出てきて、気付いたらまったく元と同じことが出来るようになるもの。
意外と代わりっているもんだ。

大体、一人や二人いなくなったくらいで社会が回らなくなったら、あっという間に人類と言う種は絶滅だ。だから、そうならないように出来てる。

「俺がいなくたって、社会は回る」という言葉の裏には、「いなくなったらみんな困るような存在でありたい」という希望があるんだろうけど、それは“人類絶滅”と引換でしか手に入らないようなものなんだよね。

じゃあ、代わりがいるから、無価値なのか、というとそれは全然違う。

たとえば、ハチの群れの女王蜂は1匹だけど、働き蜂はたくさんいる。
確かに働き蜂が1匹2匹死んだくらいで蜂の群れが困るようなことにはならない。
じゃあ、働き蜂は女王蜂より価値が低いか、というとそんなことは全然なく、どちらも価値は同じ。
すべて女王蜂でも群れは成り立たないし、すべて働き蜂でも成り立たない。
重要さは同じなんだよね。

「代わりはいるけど、存在価値はすべてに均等にある」というのは、ごく当たり前のことなのに、つい忘れがちになる。

「ナンバーワンでなくてもいい、オンリーワンを目指せ」なんていうワケの分からない“個性論”が出てくるから、「オンリーワンにならなくちゃ」っていう強迫観念に縛られてしまう。

“かけがえのない存在” ということばかりクローズアップされるから、“代わりがいる” ってことに気付いたとたんに自分がとても無価値に感じてしまったりする。
“代わりがいない人” の方が “代わりがいる人” より価値があるように感じさせられてる。
でも、そんなことない。
代わりがいるかどうかと、価値があるかないかはまったく無関係なんだ。

「ナンバーワンでなくても、オンリーワンでなくてもいい。みんながそこにいることに意味がある」っていうことなんだと思う。


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コメント

奇しくも
次回ネタで ”オンリーワン”のフレーズを使いたいナ!!と
思っていたところでしたぁ~

ここでのいろんな”言葉”が
文章力と表現力を持ち合わせていない私の代弁をしてくれているようで
心に沁みるのであります シミジミ~~~~

*** おけい さん ***
こんにちは。いつもコメントありがとうございます。
おけいさんの“オンリーワン”のことを書いた日記も楽しみにしています!
のんびり更新ですが、また見に来てやってくださいませ。

ゴブサタです。

ううん納得というか同感。
僕もですね、「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」という歌詞に、異常なまでに多くの日本人たちが心打たれているのをみるにつけ、「要は、オンリーワンとはその他大勢と同じ意味なのね」と斜に構えてみてしまうことが多々ありまして。

個性が大事とうたっているんだろうけど、逆にそれを聞く人の没個性という現実を浮き上がらせているような、そして、その没個性的な人たちのおかげでお金をもうけている人たちがたくさんいるんだろうなというのが正直な感想。

てか、ほんとに才能ある人とか個性豊かな人は、個性が大事とか言わずに逆に僕なんてみんなと変わらないですよってなくらい余裕で構えてますよね。

すみません、途中から話が変わってきたかもですが、いやほんとにゴブサタでしたのでまた今後もよろしくお願いします。

*** 音羽屋さん ***
こんにちは!
「音羽屋的」が再開(?)されて良かったです。喜んでいる人も多いことでしょう!

ホントにね、僕もそう思います。
「個性=他人と違うこと」じゃないんですよね。
「他人と違うところがなくちゃいけない。没個性じゃいけない」なんてことないのに、なぜかそう思わされてる。きっと音羽屋さんのいうようにそれで儲けている人がいるからでしょう。
「個性を大切にしよう」っていう考え方は、本来その逆の理由から出てきているものだと思うんですよ。「みんなどうしたって違うところを持ってる。違うところがあってもお互い認め合おうじゃないか」ということなんですよね。
だって、放っておいても「製造誤差」で違いが出てきてしまう。
だから、「他人と同じじゃなくていい」ってことなんですよね。

PS
音羽屋さんが「まるで南無阿弥陀仏の世界観」と書いていただいたおかげで、僕は自分の考えていたこととが親鸞がはるか昔に説いていたことだった、ということに気付きました。
ありがとうございました。

ごめんなさい、ちょうどそのコメントをした前後から音羽屋的の休眠期に入ってしまっていたので、南無阿弥陀仏のその後の展開を見逃していました。
そのような深い思索が繰り広げられていたとは・・・ひととおり読ませていただきました。なんだかうれしいです。

というわけで、豆知識的な部分を補足(すでにhirobotさんが書いてるものとかぶる部分もありますが)。

「南無阿弥陀仏」を分解すると、「南無」と「阿弥陀仏」に分かれます。

南無=帰依する。
阿弥陀仏=計り知れないもの。

という意味。

両方ともサンスクリット語の音に漢字を当てはめたものなので、漢字そのものには意味がありません。

阿弥陀仏=アミターバですが、これはさらに分解できます。
「ア」は、否定の接頭語。つまり、「ミターバではない」という意味。
「ミターバ」というのは実は今でもよく使う1メーター2メーターの語源になった言葉で、なんらかのスケールを表します。
それを否定しているので、はかれない、はかりしれない、ということ。

すなわち、南無阿弥陀仏を直訳すると、「はかりしれないものに帰依せよ」ということになります。

南無阿弥陀仏は中国でサンスクリット語の音に漢字をあてはめて作られた言葉ですが、同時に意訳もされています。

南無阿弥陀仏の意味をきちんと漢字で表現するとこうなります。

「帰命甚十方無碍光如来」

十方とは世界のこと。無碍とは隔てたり障害となるものがないこと。

世界をあまねく照らす知恵の光に帰命(帰依)せよ

ということです。

親鸞は人間のことを「無明」と言いました。「無明の闇」ともいいました。自分自身ではどうしようもない、なにもわからない、真っ暗な闇の中にいるのだと。

う~ん深い。

でも、親鸞は神仏を拝んだり頼りにしたりすることは明確に否定しています。帰依するとは仏頼み神頼みではないのです。

ここが難しいところ。

ちなみに、親鸞が無明の闇を破ったのかといえばそうではなく、彼も同じ人間。そこらへんがいいですよね。

*** 音羽屋 さん ***
こんにちは。コメントありがとうございます!

> 帰依するとは仏頼み神頼みではないのです

まさにその通り!
「念仏を唱えれば救われる」というのは、利益信仰と捉える人がいたりしますが、まったく違いますよね。

仏頼み神頼みはまさに「行者のはからい」であって、「あるがままを受け入れることで解放される」ことからどんどん離れて行ってしまいますものね。

> 彼も同じ人間

これも同感。
親鸞が「念仏を唱えよ」と言ったことと「偶像を崇拝することをやめよ」と言ったことが矛盾する、という人もいますが、それは大いに的外れだと思います。
このところに親鸞は普通の人間の心持を良く理解していた人だったことがうかがえます。
いったん、あるがままを受け入れて救われた、と思っても、世俗にまみれているうちについつい忘れがちになってしまう。
そのようなとき「南無阿弥陀仏」を唱えることで、解放された時の心持を自分の中に取り戻すことができる、ということだと、解釈しています。

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