新月前夜、窓、そして君の事。【第 9 話】
文・イラスト: セキヒロタカ
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[前回までのあらすじ]・・・
新月前夜に「その」部屋の明かりが必ず2度明滅することに気付いた僕は、新月前夜になるとベランダから観察していたが、その晩はいつもと違って点いたまま消えなかった。その緑の明かりに暗示めいたものを感じ、翌日「その」ビルに行った僕が見たのは外壁を覆われたビルだった。そこで僕は「静かな朝の天気予報」の女の子に出会い「耳たぶ」の契約をする。「その部屋」から持ち出されたものが SPring-8 に送られたことを前田から知らされた翌朝、彼女は部屋から姿を消す。
僕は彼女に繋がっている糸の先をなんとか見つけようとしたが、彼女自身のこと以外は具体的に何も知らないことに気付き愕然とした。
彼女の実家のこと、彼女の病弱な両親のこと、彼女の昔の友達のこと。もちろん、大まかなことは知っていた。両親はどういう人で、どういうところで育って、どういう友達がいたか、は知っていたけど、じゃあ、名前は?住所は?電話番号は?
何も知らなかった。
部屋の中を探せば何かが見つかるかもしれなかったが、彼女がいない間に家捜しするのはフェアじゃないし、彼女を冒涜するような気がした。
僕は彼女の置手紙を丁寧に四つ折にして、傷まないようにブルゾンの胸ポケットにしまった。今の僕にとっては、この彼女の手紙以上に大事なものはないように思えた。
僕は急いで部屋を出て鍵を閉め、エレベータの下行きボタンを押したが、ちょうど下の階に通り過ぎてしまったところだった。
僕は階段を駆け下りてマンションの駐輪場まで行き、自分の自転車を探した。自転車は予想通りパンクさせられていた。僕はタクシーを拾って、運転手に彼女の職場の場所を告げた。
彼女の職場の雑居ビルの周りは渋滞していた。僕は途中でタクシーを降り、走った。
朝で客もまばらな1Fのイタリアンカジュアルの店を早足で通り抜け、エレベーターホールにたどり着いた。
僕は、1Fに停まっていたエレベータに乗り、「6」を何度も押した。
僕は最悪の状況も覚悟していたが、メガネ店は営業していた。ガラス張りの店舗を通って来た朝日で明るくなったエレベータホールを見て、気持ちが少し落ち着いた僕は、店の中で話す内容を整理した。僕は一度深呼吸をして、ガラスのドアを開けて店に入り、まっすぐカウンターに向かった。
もちろん、そこには彼女はいなかった。
カウンターの女の子が僕に気付いて笑顔で挨拶したが、僕の表情を見てメガネを買いに来た客でないことをすぐに理解したようだった。
僕は、その女の子に彼女の名前を告げ、彼女が今朝、朝食も摂らずに突然いなくなったこと、詳しくは言えないが彼女が事件に巻き込まれているかもしれないこと、を話し、もし彼女か彼女の代理の人間から連絡があったら、もう例の調査はやめたということと、可能なら僕まで連絡して欲しいということを伝えてくれるよう頼んだ。
次に職場に電話してくるとしたら、おそらく彼女ではなく連れ出した連中だろう。僕が例の件を嗅ぎ回るのをやめたことが分かったら、彼女を早く解放するかもしれない。
彼女のプライベートなことを彼女の同僚に話すのはとても抵抗があったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
その女の子は彼女とそれほど親しいわけではないようだったが、真剣な表情で僕の話を聞いて「警察に連絡しましょうか?」と言ってくれた。
僕は、それはこちらでやりますから、と断り、協力してくれてありがとう、と言って店を出た。
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雑居ビルから出ると、いつも通りの風景があった。
でも、そこには彼女はいない。
僕のせいで彼女はこの風景から取り除かれてしまったのだ。
僕は、本来いるべき場所から猛スピードで遠ざかっていることを感じていた。
僕という惑星は、突然、彼女という太陽を失い、宇宙の辺縁へ弾き飛ばされていた。
気付くと僕は雑居ビルの前の横断歩道を渡っていた。
鉄道の高架下を通る道の向こうに、足場が取り外された「あの」ビルが見えた。
僕は、ビルの変化に気付いた。
「あの」部屋の窓がなくなっていたのだ。
壁面からは窓が完全になくなって、他の壁と同じ材質で覆われ、何かの看板を取り付けるためのステーが設置されていた。
どうして東側の窓をふさいでしまわないといけないのか、僕には理解できなかった。ターミナル駅近くとはいえ、線路側の看板にそれほどの広告効果があるとは思えなかった。
理由は僕にはわからなかったが、「その」窓の存在が痕跡を残さずにこの世界から消えたのは明白な事実だった。
でも、今の僕にはそんなことはどうでも良かった。
少し前なら、そのことに驚愕し、大きな疑問を感じただろうけど、それより、こんなことに彼女を巻き込んでしまった自分に腹を立てていた。
彼女は職場が近いこともあったし、僕がとても「あの」部屋に興味を持っていたので、頻繁に ― 日によっては何度も ― あのビルを見に行ってくれていた。
しかも彼女は何かを感じるから、余計に目立ってしまったのかもしれない。
もし僕が、彼女にあんなことを言わなかったら、彼女は今でも普通に暮らせていたかもしれないのに。
悔やんでも悔やみきれなかった。
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「ということは、当面お前と俺は大丈夫、と言うことだ」
電話に出た前田はそう言った。僕たちは情報を持たず嗅ぎ回っている側と見做された、と言いたかったのだろう。
「当局が動いたのか?」
「それは俺にもなんとも言えん。とにかく俺は手を引く。お前ももうこの件にはかかわらない方がいい。」
前田は僕の質問に手短に答え、そのまま電話を切った。
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彼女を連れ出した連中が当局でないこともあり得たので、警察に連絡することも考えた。だが、取り合ってくれるわけがなかった。表面上はまったく事件性がないのだから。交際相手の女性が「すぐ戻る」と置手紙を置いて外出しただけ、なのだ。取り合ってくれたとしても、まともに捜査してくれるとは思えないし、もし動いたのが当局なら彼女が解放されるのが遅れるだけかもしれない。
そのとき、僕はようやく、重要なことを忘れていることに気付いた。
僕は大急ぎでタクシーを拾って、彼女の部屋に取って返した。
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遅かった。
彼女の部屋はすっかり空っぽになっていた。部屋越しに見えるバルコニーの隅にもたれかかるように、小さなポトスの鉢だけが残されていた。僕は急いで部屋を出て前の廊下から下を見た。ちょうど、引越し業者のトラックが出て行くところだった。
僕は遠ざかっていくトラックをただ呆然と見送るしかなかった。
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僕は彼女の部屋に入って、小さなポトスの鉢を大事に抱え、今朝までローテーブルが置かれていた場所に座った。
空っぽになった彼女の部屋はとても小さく感じた。
僕はポトスを抱えながら、彼女と、彼女といた部屋を思い出していた。
かすかに彼女の匂いがするソファとクッション、こじんまりとしたローテーブル、ソファに寝転んで笑う彼女、おでん鍋とピノノワールのワインボトル、彼女の体温で暖かくなったベッド、彼女の寝息で湿った僕の胸。
僕は胸ポケットから四つ折にした彼女の置手紙を取り出して広げ、何度も何度も読んだ。彼女がくれたネックレスのトップがポトスの鉢に触れて「チン」と鳴った。
気付くと僕は声を上げて泣いていた。
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「すみません。そこにおられるのはどなたですか?」
玄関の方から声がした。管理会社の担当者のようだった。
「勝手に入られると困るんですよね。」
僕は、慌てて涙を拭いて玄関に行き、合鍵を見せて怪しいものではないことを説明した。そして、合鍵は返すから思い出の品のポトスは持って帰ってもいいか、と訊いた。キーシリンダーは交換されてしまうから持っていても仕方ないし、持っていることでまずいことにもなりかねない。それに、僕にはこのポトスの鉢は彼女と繋がる大切なものだった。
「本当は困るんですけど、何も見なかったし、聞かなかったことにします。」
彼は僕のことを交際相手に捨てられた哀れな男と思ったのだろう。少し同情してくれたようだった。
「これ、使います?」
と彼は手に持っていた紙袋を僕に差し出した。僕は礼を言って、その紙袋にポトスの鉢をそうっと入れて抱えた。彼は、もう閉めるので申し訳ないが出て行ってもらえないか、と僕に言った。僕はもう一度礼を言って廊下に出た。
・・・
いつの間にか、少し陽が傾きつつあった。
廊下から見えるビル群は、傾いた太陽に照らされて金色に輝いていた。
風は、春の夕暮れの、少し甘くて、不透明な匂いがした。
(つづく)
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コメント
ああ、彼女はどうなるんだろう。
なんだか、僕まですごく後悔しちゃいますよ。
自分がすっかり主人公になってきましたよ。
投稿者: funamyu | 2010年02月12日 23:20
*** funamyu さん ***
こんばんは!
いつもコメントありがとうございます。
> 自分がすっかり主人公になってきましたよ。
そう言っていただいて、作者冥利に尽きます。
ありがとうございます。
できるだけ早く第10話のイラストを描きます!(文章の方はもう書き終わっているので。)
今しばらくお待ちを。
投稿者: hirobot | 2010年02月13日 00:19
「僕」と「彼女」がどうなってしまうのか。
すっかりストーリーの虜となっています。読者としてはハッピーエンドを期待しますが果たして⁉
投稿者: taku | 2010年02月13日 08:03
*** taku さん ***
おはようございます。
いつもコメントありがとうございます。
もうプロットはすべて出来上がっています(というかプロットは書き上がっていて肉付けしながらだしていくだけです)ので、ご希望に応じてエンディングを変更できないのですが、さて、どうなるのでしょう・・・
投稿者: hirobot | 2010年02月13日 08:20
再度です。すみません(笑)。
hirobotさんの考えるこのストーリー展開、どうなるんだろう?と毎回楽しみにしてます。
今回の終わり方もあるのですが、
全体を読んでいて
な~んか切ない雰囲気があり、読後に余韻が残ります。
それがまた、良いんですよ。
hirobotさんの作風かと。
投稿者: taku | 2010年02月14日 10:48
*** taku さん ***
いえ、こちらこそコメントいただけてうれしいです!
楽しみにしていただけている、と思えることが次回のモチベーション(特にイラスト描く方の(笑))になっています。ありがとうございます。
「余韻が残る」なんて、作者冥利に尽きます。
これから、徐々にエンディングに向かって行きますが、是非これからも楽しみにしていていただければとてもうれしいです!
投稿者: hirobot | 2010年02月14日 10:52
彼女は
不本意に事件に巻き込まれた!!と思っていましたが。。。
意外にも 重要人物!?!?
今回のイラストは
居なくなって気付いた彼女の存在の象徴のように
艶やかなピンクのお花が可愛いですね!!
投稿者: おけい | 2010年02月15日 12:20
*** おけいさん ***
こんにちは!
いつもコメントありがとうございます!
ネタバレしちゃいますが、重要人物、というより、巻き込まれた人、なんです。あー、言っちゃった(笑)
イラストお褒めいただいてありがとうございます。
僕も気に入ってるんです。
話の中の季節と全然リンクしてませんが(笑)
投稿者: hirobot | 2010年02月15日 17:33