the magic feeling
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
「誰かに認めてほしい」と思っていた時期もあった。
でも、最近はそう思わなくなった。
良く考えたら、誰かに認めてもらえるような何か、を僕は持ち合わせていないことに気づいたからだ。
「そっか、誰にも認められなくても良いんだ。」
そう考えたら、とても気が楽になった。
なんか不思議だね。
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
「誰かに認めてほしい」と思っていた時期もあった。
でも、最近はそう思わなくなった。
良く考えたら、誰かに認めてもらえるような何か、を僕は持ち合わせていないことに気づいたからだ。
「そっか、誰にも認められなくても良いんだ。」
そう考えたら、とても気が楽になった。
なんか不思議だね。
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
就活で「尊敬する人は?」とか訊かれたりするんだね。
それって、何かを成し遂げた「偉い人」の個人名を答えるんだろうな。「田中さん」とかじゃなくて。
尊敬に値する人は、もちろんたくさんいるけど、僕が一番尊敬するのは、こんな人だ。
・・・
とりたてて取り柄があるわけじゃない。
自慢できるような学歴もなければ、
人並み外れてスポーツができるわけでもない。
人を感動させるような歌は歌えないし、
目を見張るような絵が描けるわけでもない。
毎朝、工場に行って、機械を組み立て、
仕事を終わらせて、部屋に帰る。
毎日一人で、手を合わせて「いただきます」と言って、
晩御飯を食べられる人。
他人と比べたりしない。
他人を羨んだりしない。
自分を卑下したりしないし、
他人を蔑んだりもしない。
自分が一人でちゃんと生きていることに、誇りを感じて、
毎日、静かに暮らしている。
そんな風に生きられている人が、世界にどれだけいるだろう?
そういう人に、僕は、なりたい。
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
前に書いたことだけど、バラバラに書いたので、1 つにまとめておこうと思って。
まとめ損なっているところもありそうだけどね。
・・・
「諦めないこと」が素晴らしいように言われることが多いけど、諦める方が余程難しい。
よく「オレ、簡単に諦めちゃうんだよね」なんていう人がいるけど、それは「諦めてる」んじゃなくて、単に「努力するのを止めた」だけだったりする。
努力するのは止めたけど、心のどこかでは「たなぼたで手に入らないかなぁ」なんて思ってる。それって、諦めてない。
「諦める」っていうのはそんな生半可なことじゃない。
望むものは自分に力ではもう手に入れられないことを認めることだ。
つまり自分の能力の足りなさを正面から受け止めて、自分が劣っていることを認める必要がある。
それはとてもキツい。
自分を客観的に見つめ、分相応を知る。
それが諦めるということの本質だ。
努力するのをやめただけ、というのとは全く違う。
自分ががんばってできること、がんばってもできないこと、それをはっきり見つめ直すことだ。
自分ががんばってできることをやってもできなかったことは、仕方ない。
自分でできることをすべてやったかどうかを点検し、これからできることがないかについても検討して、それでも無理ならば、それが自分の器だと受け入れる。
ありのままの自分を受け入れるのは難しいこともあるが、それができれば、きっと救われる。
自分は精いっぱいやった。自分は自分だから。これでいいんだし、こうなるようになってるんだ、って。
下に引用したのは、「音羽屋」さんと言う方から、僕のブログに頂いたコメントです。
以下、音羽屋さんのコメントをそのまま引用 (引用許可頂いています)。
***引用ここから***
音羽屋的。には実は枕詞というかサブテーマがありましてですね、ご存じかもしれませんが、「諦聴諦聴」というのがそれです。「諦聴諦聴音羽屋的。」
(yahooで諦聴諦聴を検索するとその記事がトップに出てくるw)これって、釈迦の言葉で、仏説観無量寿経というお経の一説なんです。和訳すると、「あきらかにきき、あきらかにきけ」というふうになります。
おもしろいなぁと思うのが、「あきらか」と読む「諦」という字は、ここでもあるとおり「あきらめる」とも読むんですよね。
つまり、自分があきらかになる=自分の器がわかる=ありのままの自分を受け入れる、という見方が出来ると思うんですが、すなわち、あきらめることとあきらかになることはイコールなのではないかと。
僕はそれをこのお経の一説に出会って考えるきっかけをもらいましたが、hirobotさんがそういう背景なしに「諦」という概念を同じように受け止めておられたことに正直驚きと感動があります。
本当に諦める。自分ではどうしようもないことを悟る。そこで初めて自分というものがあきらかになる。
これって、真に自分らしく生きるためのスタートラインなのではないかと思うのです。そして、自分含め、いろんなことを諦めきれずにもがきながら、結局そのスタートラインに立つこともかなわぬままに死んでいくのが人間の悲しさなのかなと。。。
投稿者: 音羽屋 | 2010年06月11日 09:19
今回のコメントでも、僕の考えていたことは、何千年も前に既に釈迦が考えていたのだ、と気付かせていただいた。すとん、と腑に落ちる、とは、このことだ。
「諦めること」というのは、「努力をやめること」とはまったく違って、「自分にとって都合の悪いことにも目を開き、心を開いて、自らの身の丈を明らかに見て、自らの限界を知ること」で、これは本当はとても厳しいこと。
身の丈を知る、それは傲慢になっても、卑屈になっても、上手くいかない。
自分にできることを知り、同時に、自分にできないことを知る。
それは、限界まで行かなければ分からない。
諦める前に自分は本当に限界まで攻めているか?
逆に、見たくないものを見ないために、ただ諦めることをしていないだけではないか?
常に自分に問いかけることができて、初めて身の丈を知り、「諦める」ことができる。
それは、まさに「明らかに見る」ことなんだと思う。
・・・
僕はもともと他人から好かれるタイプではない。
いろいろと努力はしてみたけど、まぁ、無駄だったね。どれも。
基本的な性格に問題があるのだろうけど、それを無理に繕っても結局上手く行かない上に、ストレスが溜まる。いいこと無い。
“他人から好かれる” ことは、努力してどうこうなるものではなくて、その人の行動や持って生まれたものの総体として、結果的に他人から好かれるわけだから。
もちろん、かといって、自分勝手に生きるんだ、っていうわけではなくて、“他人から好かれることを目的として行動しない” ということです。
自分は他人から好かれていないな、と感じても、そのことについて自分を責めすぎないようにしよう、ということ。自分に悪意があってやったなら問題だけど、善意で行動して、そのときはそれが精一杯のことで、結果的に嫌われたのだったら、それはそれで仕方ないことだから。
とにかくそのことで自分を責めすぎてはいけない。そういうことです。
・・・
僕の経験上、「やればできる」とか「願いはかなう」とか間違ったことを言うから、うつ病患者がどんどん増えるんだと思う。
たとえば、他人となじめないこと。
たとえば、自分が理想の自分とは違うこと。
たとえば、他人からの評価が低いこと。
そういうことで自分を責めてはいけない。
「どうして自分はこんなことができないんだ」なんて自分を責める必要なんてない。
誰もが超一流になれるわけではない。超一流の人が超一流でいられるのは、そうでない圧倒的多数の人がいるから。
人それぞれには器があり、努力してもできないことはできない。
自分のできる範囲で、できることをやればいい。
他人様の評価は、自分ではコントロールできない。
自分ができる以上のことはできないんだから、やれるだけやって、他人様の評価が低くてもそれはどうしようもないし、悩んでも仕方ないこと。
・・・
人気者になんてならなくていい。
その他大勢の一人でいい。
自分ができることを、自分のベストでやれていれば、誰にも恥じることはない。
ずっと上を向いて生きている必要なんてない。
でも、ずっとうつむいて過ごすこともない。
充分頑張ってる。
今のままでいいんだ。
そう、それでいいんだ。
南無阿弥陀仏 - 阿弥陀仏の思し召し通りに
導きに従って生きれば、無理なくに生きて行けいるようになっている。
つまり、無理なく生きるようにすれば、すなわちそれは導き通りの生き方になっている。
水が沢を流れ下るように、自然とそうなるように出来ている。
僕が、以前、モータースポーツの師匠の一人、田中“極楽堂”稔 氏から教えてもらった言葉、今になって分かった。
***
丁度良い
おまえはおまえで丁度良い
顔も体も名前も姓も
おまえにそれは丁度良い
貧も富も親も子も
それはおまえに丁度良い
幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度良い
歩いたおまえの人生は、
悪くなければ、良くもない
おまえにとって丁度良い
地獄に行こうと、極楽に行こうと
行ったところが丁度良い
卑下することもない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度良い
仏様と二人連れの人生
丁度良くないはずがない。
南無阿弥陀仏
***
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
この間ここに書いた「諦める事は諦めない事より難しい」に、音羽屋さんから素晴らしいコメントをいただいたので紹介。
以下、音羽屋さんのコメントをそのまま引用 (引用許可頂いています)。
*** 引用、ここから ***
音羽屋的。には実は枕詞というかサブテーマがありましてですね、ご存じかもしれませんが、「諦聴諦聴」というのがそれです。
「諦聴諦聴音羽屋的。」
(yahooで諦聴諦聴を検索するとその記事がトップに出てくるw)
これって、釈迦の言葉で、仏説観無量寿経というお経の一説なんです。和訳すると、「あきらかにきき、あきらかにきけ」というふうになります。
おもしろいなぁと思うのが、「あきらか」と読む「諦」という字は、ここでもあるとおり「あきらめる」とも読むんですよね。
つまり、自分があきらかになる=自分の器がわかる=ありのままの自分を受け入れる、という見方が出来ると思うんですが、すなわち、あきらめることとあきらかになることはイコールなのではないかと。
僕はそれをこのお経の一説に出会って考えるきっかけをもらいましたが、hirobotさんがそういう背景なしに「諦」という概念を同じように受け止めておられたことに正直驚きと感動があります。
本当に諦める。自分ではどうしようもないことを悟る。そこで初めて自分というものがあきらかになる。
これって、真に自分らしく生きるためのスタートラインなのではないかと思うのです。そして、自分含め、いろんなことを諦めきれずにもがきながら、結局そのスタートラインに立つこともかなわぬままに死んでいくのが人間の悲しさなのかなと。。。
投稿者: 音羽屋 | 2010年06月11日 09:19***引用、ここまで***
以前にも音羽屋さんには、僕が気付いたことを日記にしたときに、「それは南無阿弥陀仏の世界観ですね」と教えていただいた。なんとなく形を取りつつあった僕の考えが、明確な姿をして目の前に現れた瞬間だった。
今回のコメントでも、僕の考えていたことは、何千年も前に既に釈迦が考えていたのだ、と気付かせていただいた。すとん、と腑に落ちる、とは、このことだ。
「諦めること」というのは、「努力をやめること」とはまったく違って、「自分にとって都合の悪いことにも目を開き、心を開いて、自らの身の丈を明らかに見て、自らの限界を知ること」で、これは本当はとても厳しいこと。
身の丈を知る、それは傲慢になっても、卑屈になっても、上手くいかない。
自分にできることを知り、同時に、自分にできないことを知る。
それは、限界まで行かなければ分からない。
諦める前に自分は本当に限界まで攻めているか?
逆に、見たくないものを見ないために、ただ諦めることをしていないだけではないか?
常に自分に問いかけることができて、初めて身の丈を知り、「諦める」ことができる。
それは、まさに「明らかに見る」ことなんだと思う。
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
諦める事は諦めない事より難しい。
「諦めないこと」が素晴らしいように言われることが多いけど、諦める方が余程難しい。
よく「オレ、簡単に諦めちゃうんだよね」なんていう人がいるけど、それは「諦めてる」んじゃなくて、単に「努力するのを止めた」だけだったりする。
努力するのは止めたけど、心のどこかでは「たなぼたで手に入らないかなぁ」なんて思ってる。それって、諦めてない。
「諦める」っていうのはそんな生半可なことじゃない。
望むものは自分に力ではもう手に入れられないことを認めることだ。
つまり自分の能力の足りなさを正面から受け止めて、自分が劣っていることを認める必要がある。
それはとてもキツい。
自分を客観的に見つめ、分相応を知る。
それが諦めるということの本質だ。
努力するのをやめただけ、というのとは全く違う。
自分ががんばってできること、がんばってもできないこと、それをはっきり見つめ直すことだ。
自分ががんばってできることをやってもできなかったことは、仕方ない。
自分でできることをすべてやったかどうかを点検し、これからできることがないかについても検討して、それでも無理ならば、それが自分の器だと受け入れる。
ありのままの自分を受け入れるのは難しいこともあるが、それができれば、きっと救われる。
自分は精いっぱいやった。自分は自分だから。これでいいんだし、こうなるようになってるんだ、って。
僕もそれで救われました。
世の中には確かに幸運なだけで実力以上に評価されている人はいると思う。
単にメディアに取り上げられただけで、大したこともないのに時代の寵児になっちゃった人も確かにいる。
昔はそういう人を見て、ヤツに比べて自分はツイてないよな、なんて思ったこともあったけど、全然そう思わなくなった。
人生、上下はあるけど、最終的にはおおよそ分相応に評価がされてるもんなんだよね。
分不相応に高くもなければ、不当に低くもない。
たまに、とても珍しい “青い鳥” を見つける人がいるけどそういう人は本当に稀で、逆に「この人はもっと評価されても良いのに」と思う人の方が断然多い。
そう考えると、僕はどちらかと言えばツイてる方だな。
確かに実力以上に評価されることはほとんどないけど、逆に不当に低く評価されることもないからね。
以前は、自分の評価を上げるためにいろいろとアピールしたりもしたけど、結局そんなことで評価なんて変わらない。無理せず、自分のできることを、自分のできる範囲でやっていれば、おのずと評価は定まってくるもんなんだよね。
結局、今の評価が “ちょうど良い” んだよ。僕にとって。
Fujifilm Finepix S5 Pro, Sigma DC 24-70mm 1:2.8 EX DG
これまで、僕は「他人から尊敬される人間になりたい」と思ってきた。
それはそれで間違いじゃないと思うし、他人からの評価なんてどうでもいい、とは思わない。
でも、大切なのは、「自分が自分のことを尊敬できること」なんだと思う。
僕は、「努力や課程ではなく、結果だけが意味を持つ」場所で生きてきたし、そういう世界が好きだった。それは仕事でも趣味でも(もはや趣味とは呼べるかどうかは疑問だけど(笑))。
仕事としてするからにはプロだから、もちろん今でも「努力で評価してほしい」なんて少しも思っていない。
これまでは、精一杯やって自分で納得できる結果が出てもそれに対する評価が低かったとき、「どうして評価される仕事ができないのだろう」と自分を責めていた。
でも、自分の能力を最大に使って、ちゃんと努力したのなら、自分で自分のことを尊敬できる。
自分の努力は、自分が一番よく分かっているから。
逆に自分がサボっていたら、いくら他人から評価されても自分では自分のことを尊敬できない。それも自分が一番よく分かっているから。
できないことは、できない。
人間にはそれぞれの能力の限界というものがある。
でも、できることは必ずあるはず。
できることをできるだけやろうと思う。
「自分で自分のことを尊敬できることをしているか」。結局、尊厳 - dignity とはそういうことなんだと思う。
Olympus E-P1, Voigtlander Nokton classic 40mm F1.4 MC
僕はもともと他人から好かれるタイプではない。
いろいろと努力はしてみたけど、まぁ、無駄だったね。どれも。
基本的な性格に問題があるのだろうけど、それを無理に繕っても結局上手く行かない上に、ストレスが溜まる。いいこと無い。
“他人から好かれる” ことは、努力してどうこうなるものではなくて、その人の行動や持って生まれたものの総体として、結果的に他人から好かれるわけだから。
もちろん、かといって、自分勝手に生きるんだ、っていうわけではなくて、“他人から好かれることを目的として行動しない” ということです。
自分は他人から好かれていないな、と感じても、そのことについて自分を責めすぎないようにしよう、ということ。自分に悪意があってやったなら問題だけど、善意で行動して、そのときはそれが精一杯のことで、結果的に嫌われたのだったら、それはそれで仕方ないことだから。
とにかくそのことで自分を責めすぎてはいけない。そういうことです。
・・・
これ、弊社のエディタのワタさんから以前もらったものです。
『Stuff - Live At Montreux 1976』 の DVD。Stuff がモントルー・ジャズフェスティバルで演奏したときの模様を収録したもの。
久しぶりに聴き直した(観直した)けど、凄い。Stuff の素晴らしさがここに凝縮されている。soul-stirring というけど、魂を本当にグラグラ揺さぶられる演奏だ。
ライブならではの素晴らしさだ。こういう感覚は、一発録りの生演奏でしか得られないように思う。
これと同じくらいの感動を与えてくれた演奏は、The Crusaders の 『Scratch』 と Lee Ritenour の 『Friendship』(こちらはライブではないけど、スタジオでアルバム丸ごとカッティングマシンを動かしながらの一発録り(ダイレクトカット!)の生演奏だ)くらいしか知らない。
これらは、どれも本当に素晴らしい演奏なので、聴いたことのない方には絶対のオススメです。
ゴードンエドワーズ若いなぁ。
この中で、もう2人もこの世にいないなんて。
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
ロードワーク、って程のこともしてないけど、晴れた日は15km程自転車で走ってる。
この季節の晴れの日は自転車で走るのに最適だね。めちゃくちゃ気持ちいい。
・・・
僕がずっと考えてきて形になり始めたことが、仏教の教えと同じことだった、と気付いてから、南無阿弥陀仏についていろいろ調べてる。
僕は、運とか、境遇とか、自分の力ではどうしようもないところで思い悩んだりしていた。
人間は愚かだから、どうにもならないことを知恵でなんとかしてやろう、と考えてしまう。(愚かな人間のそのような知恵を、親鸞は「行者のはからひ(計らい)」と呼んだ。)
人間も、ワンコやネコのように、境遇も運もそのまま受け入れて生きればずっと楽に生きられるのに。
「念ずれば救われる」という親鸞の教えは、得てして、「願望実現」的な利益信仰と捉えられることが多いけど、そうじゃない。別に南無阿弥陀仏を唱えたからと言って、金持ちになったり、欲しいものを手に入れたいといった願いがかなったりするわけじゃない。
人間の愚かな知恵ではどうにもならない、運とか境遇を、ありのまま受け入れることによって、不要な苦悩から解放されるんだ、ということ。
救われる、っていうことの本当の意味がようやく分かったよ。
実際、救われたからね。
・・・
日曜日は、上手い具合に1日だけ晴れで穏やかな日だった。とても気持ちよかった。
海沿いのサーキットで強風が心配されたけど、それも全然問題なし。
楽しい時間をありがとうございました。僕なんかよりよほど運転上手いです。>オーナー様
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
「俺がいなくたって、社会は回る」って?
うん、確かにその通り。
たいていの場合、最初は困ることはあっても、その内なんとなく代わりが出来る人が出てきて、気付いたらまったく元と同じことが出来るようになるもの。
意外と代わりっているもんだ。
大体、一人や二人いなくなったくらいで社会が回らなくなったら、あっという間に人類と言う種は絶滅だ。だから、そうならないように出来てる。
「俺がいなくたって、社会は回る」という言葉の裏には、「いなくなったらみんな困るような存在でありたい」という希望があるんだろうけど、それは“人類絶滅”と引換でしか手に入らないようなものなんだよね。
じゃあ、代わりがいるから、無価値なのか、というとそれは全然違う。
たとえば、ハチの群れの女王蜂は1匹だけど、働き蜂はたくさんいる。
確かに働き蜂が1匹2匹死んだくらいで蜂の群れが困るようなことにはならない。
じゃあ、働き蜂は女王蜂より価値が低いか、というとそんなことは全然なく、どちらも価値は同じ。
すべて女王蜂でも群れは成り立たないし、すべて働き蜂でも成り立たない。
重要さは同じなんだよね。
「代わりはいるけど、存在価値はすべてに均等にある」というのは、ごく当たり前のことなのに、つい忘れがちになる。
「ナンバーワンでなくてもいい、オンリーワンを目指せ」なんていうワケの分からない“個性論”が出てくるから、「オンリーワンにならなくちゃ」っていう強迫観念に縛られてしまう。
“かけがえのない存在” ということばかりクローズアップされるから、“代わりがいる” ってことに気付いたとたんに自分がとても無価値に感じてしまったりする。
“代わりがいない人” の方が “代わりがいる人” より価値があるように感じさせられてる。
でも、そんなことない。
代わりがいるかどうかと、価値があるかないかはまったく無関係なんだ。
「ナンバーワンでなくても、オンリーワンでなくてもいい。みんながそこにいることに意味がある」っていうことなんだと思う。
Olympus E-P1, Voigtlander Nokton classic 40mm F1.4 MC
昨日の日記に書いたこと、以前の僕なら「他人からどう思われてるか気にするな、と言われても無理」って思ってたと思う。
なんでこう思えるようになったかと言うと、簡単な不等式に気付いたから。
左辺の「努力が報われた分」って「努力するストレス」と比べたら本当に小さい。
それに対して右辺の「減った分のストレス」っていうのは随分大きい。
右辺は現状、負の値になってるので、確実にこの不等式は > で成立してます。
もちろんね、「他人の迷惑を気にせず傍若無人に振舞え」って言うわけじゃなくて。
最低限、人間として守るべきモラルは守り、常識的に気を遣うのが前提でね。
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
「ほんとはイヤなんだけど、イヤって言ったら悪い印象持たれるかも」とか思って、無理したりしたこともあったけど、今はそんなこと思わない。
どんなことしても、他人の印象なんて思ったようにはコントロールできないもんだ。
それなら正直に話して、それで悪い印象もたれたら仕方ない、と思えるようになった。
もちろん、努力して何とかなることを努力しないで失敗したらあとで後悔する。
だから努力して何とかなることは努力することが大事。
でも、自分が努力して何とかなること、とそうでないことがある。
努力しても何ともならないことを思い悩んだり、それで無理したりすることをやめたらずいぶん楽になる。
もっと早く分かっていればずいぶん人生も楽だったのにね。
夕暮れ時の建物ってなにか呟いているように見えること、ない?
・・・
今日はちょっとアメコミ風。
今回も、「土曜日、公園にて」のモチーフの “空”、“小鳥”、“階段” を入れた。
絵はいいね。自由だし。
写真だと、ぐちゃぐちゃ言う 2ch のカメラヲタクが憂鬱だけど、絵だとそんなことないしね。
そんなこと言う暇があったら、まずセンス磨いたら?って思うね(笑)
・・・
最近、「ツイてない」って思うことがなくなった。
「ツイてる」とか「ツイてない」とか、そういうことってないんだよ。
たとえば、宝くじで1等が当たらなかったからと言って「ツイてない」って落ち込む人がいるだろうか?
良く考えてみると、普通に生きていけていけるだけでかなりツイてる。
そういう確率も含めて自分の人生なんだもん。
ワンコは野良犬の子として生まれたからと言って「ツイてない」って思ってないと思う。
自分の運命をありのまま受け入れてる。
そういう生き方がしたい。
・・・
大谷大学の一楽 真氏が、自身がお守りを持たないことに関する記述で良いこと書いてた。
たとえば、交通事故にあったのはお守りを忘れたからだとか、商売がうまくいかなくなったのは始めた日が悪かったからだとか、…(中略)… 問題の原因さがしに追われたり、もっと効力のあるお守りをさがし求めたり、振り回されていくのです。
自分にとって良いことを追い求め、都合の悪いことを避けようとする、これは人間の性分といっていいでしょう。しかし、良いことだけを追い求める生き方は、必ず悪いことを恐れるようになります。そして悪いことが続くと、自分の人生までも呪ったりするのです。
どのような状況に投げ出されたとしても、自分の人生は誰とも代わることはできません。しかし、それは同時に誰とも代わる必要のない人生なのです。お守りをもたないということは、良し悪しを越えて、現実と向き合っていこうとする生き方の表現なのです。
出典 : 『お守りを持たない理由』 一楽 真 大谷大学助教授
Olympus E-P1, Voigtlander Nokton classic 40mm F1.4 MC
「他人の評価が気にならなくなった」っていうと、「どうして、そうなれたの?」って訊かれる。
で、よく考えてみると、そうじゃないんだよ。
他人の評価を気にしない、っていうのは、無理だ。
他人の評価が気にならなくなったんじゃなくて、無理してまで他人の評価を上げるのが面倒になった、っていうか、そういうことは不可能なんだ、っていうことがわかった、ってことかな。
もう充分頑張ってきたしね。
今が自分のベストだし、これ以上は無理、って胸張って言える。
ということは・・・これでも「評価が低い」と思うなら、自分を自分で高く評価しすぎてるんだろうな、と。
今の他人からの評価が自分に丁度いいんだよ、と気付いた。
「代わりのいない特別な存在になりたい」と思うのは自然なんだろうだけど、どうも世間的に「代わりのいない特別な存在を目指せ」みたいな空気があって、とても息苦しくなる。
・・・
「ナンバーワンじゃなく、オンリーワンを目指せ」なんて無責任なスローガンでみんな苦しんでる。
みんな「僕しかできないことを見つけなきゃ」なんて心のどこかで思ってしまってる。
誰もがオンリーワンになれないんだよ。
働き蜂がみんな自己主張して「この素晴らしい花畑はワタシしか知らない」とか言って、他の働き蜂に教えなかったら、その巣は全滅だよね。
他の働き蜂でも同じことができてもいいじゃない。
その他大勢の一人でいいじゃない。
そりゃ、努力せずにサボっていて他人からの評価が低い場合は後悔するかもしれないけど、ちゃんと精一杯やってるなら、それ以上はできないんだから。
誰もが女王蜂になんてなれないんだよ。
代わりのいない働き蜂なんていない。
でも、働き蜂は1匹じゃだめなんだ。
みんなで一所懸命働くから、女王蜂だって子供を産める。
代わりがいるかどうかと、価値があるかどうか、はまったく関係ないんだよ。
「代わりはいるかもしれないけど、僕は僕なりにこのポジションで精いっぱいやったよ。」
そう言えるなら、それは充分に素晴らしいことだよ。
そうは思わない?
・・・
話はめちゃくちゃ変わるけど、超久しぶりに「ファッション通信」のコーナー。
僕の今年のテーマは、“乗馬スタイル”。
昨年から流行のクロップトをクロップトとしてではなく、乗馬のキュロット風に改造し(ラインを詰めて改造)、ニッカホーズにソックスイン!して、乗馬テイストで解釈しています。
これ、多分、だれもやってないと思う!
ちょっと今回は凝ってて話が長くなるので、↓の「続きを読む」で。
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
先日、連続で「南無阿弥陀仏の世界観」について書いてから、南無阿弥陀仏の意味を考えてた。
それで、いろいろ気づくことがあった。
それが本当に南無阿弥陀仏の世界観かどうかは僕にはわからない。
でも、とても楽になった。
・・・
たとえば、他人となじめないこと。
たとえば、自分が理想の自分とは違うこと。
たとえば、他人からの評価が低いこと。
そういうことで自分を責めてはいけない。
「どうして自分はこんなことができないんだ」なんて自分を責める必要なんてない。
誰もが超一流になれるわけではない。超一流の人が超一流でいられるのは、そうでない圧倒的多数の人がいるから。
人それぞれには器があり、努力してもできないことはできない。
自分のできる範囲で、できることをやればいい。
他人様の評価は、自分ではコントロールできない。
自分ができる以上のことはできないんだから、やれるだけやって、他人様の評価が低くてもそれはどうしようもないし、悩んでも仕方ないこと。
南無阿弥陀仏 - 阿弥陀仏の思し召し通りに
導きに従って生きれば、無理なくに生きて行けいるようになっている。
つまり、無理なく生きるようにすれば、すなわちそれは導き通りの行き方になっている。
水が沢を流れ下るように、自然とそうなるように出来ている。
僕が、以前、モータースポーツの師匠の一人、田中“極楽堂”稔 氏から教えてもらった言葉、今になって分かった。
***
丁度良い
おまえはおまえで丁度良い
顔も体も名前も姓も丁度良い
おまえにそれは丁度良い
貧も富も親も子も
それはおまえに丁度良い
幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度良い
歩いたおまえの人生は、
悪くなければ、良くもない
おまえにとって丁度良い
地獄に行こうと、極楽に行こうと
行ったところが丁度良い
卑下することもない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度良い
仏様と二人連れの人生
丁度良くないはずがない。
南無阿弥陀仏
***
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
前々々回の日記で、音羽屋さんから「南無阿弥陀仏の世界観」だ、というコメントいただいて、確かに、「ないものねだりしないこと」と「南無阿弥陀仏」の世界観は似ている気がした。
以下、調べてみたことと、自分なりの解釈。
「南無阿弥陀仏」はサンスクリット語の
「ナモ」
「尊重する。」と
ヒンディー語の「ナマス・テ」の「ナマス」と同じ (ちなみに「テ」は「あなた」)。
阿弥陀仏。世界をあまねく照らす無量の光。厳しい修行による臨死体験での「トンネル体験」から、「極楽浄土へ導く光」が元になっている、と以前聞いたことがある
「阿弥陀仏の思し召しどおりに」と、考える。
以下、自分なりの解釈。
***
我々は、導きによって、それぞれの役割をもってこの世を生きている。***
だから、自分にできることを自分にできるようにして生きればよい。
それ以上のことはできないし、自らにそれ以上を求める必要もない。
あなたには、あなただけのこの世での役割があり、それをすることがあなたがこの世にいる意味だからだ。
僕は仏教には詳しくないけど、もしこういう意味なら、今はとてもよくわかる。
自分に求めすぎてはいけない。
運命や、他人様の気持ちは、コントロールできない。
コントロールできないものを気に病んでも仕方がない。
自分でできる範囲のことを、できるようにやればよい。
Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
前回書いたことで、コメントをいただいて、それに対する返事を書くことでまた自分の考えがまとまってきたので、もう少し書くことにした。
僕はずっと、「どうして自分はああいう風になれないんだ」って考えることは向上心だと思ってた。
こういう“向上心”は常に、世間から評価されている人が基準になってる。
こう書くと、「そんなことない」っていう人がいるかもしれない。
僕はよく想像する。
もし、自分より素晴らしい仕事ができる人間がこの世にいなかったら、どうだろう。
もし、自分より素晴らしい演奏をできる人間がこの世にいなかったら、どうだろう。
もし、自分より速く走れる人間がこの世にいなかったら、どうだろう。
トップにいる連中が、トップにいながらにして向上していくのは、他人を基準とせずに、自分の理想を基準としているからだと思う。
だから、もし野茂英雄に才能がなくて、トップを走れていなかったとしても、彼は尊敬に値すると思うんだ。
自分に対する評価が相対的ではないから。
人ってやっぱり“製造誤差”があって、努力でカバーできるものとできないものがある。
でも、それはあくまで“世間的にトップと比較して”ってことであって、自分の中では違う。
人にはそれぞれ与えられたキャパシティがあって、それをどのくらい使えているか、ということが重要なんだと思うんだ。
自分が持っているものの中で十分努力している、これ以上求めるなら他の人に頼んで、と自信を持って言えれば、それは最高だと思う。
ようやく最近のその境地に立つことができたよ。
他者から少しでも良く見られたい、と思うから大変なのであって、あるがままでいるようにして、それに対する評価を気にしなければ何にも大変なことはない、
だって、それは自分ではコントロールできないものね。
こういう風に考えだしてから、ほとんど何にも執着しなくなった。
・・・
ちょっと話は変わるけど、いつもこの人の靴には、ぐいぐい心を惹かれてしまう。
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Sigma DP2, SIGMA LENS 24.2mm 1:2.8
ないものねだりしないようになったら、楽になった。
僕はずっと相対的に自分の価値を決めてた。
他人から認められる存在になる、とか、そういう基準。
結局それはとても相対的で、きりがない。
多くの人に認めてもらえるようになればなるほど、認めてくれない人のことが気になる。
そういう判断基準は完全に捨てるまでは時間掛かったけど、今はもうそういうことはほとんどまったく気にならない。
自分で自分のできる限りのことをしていると思えれば、それでいいじゃない、と思えるようになった。
僕はできる限りのことをしている、これで足りないというなら、他の人に頼んでください、と今は自信を持って言える。
僕はずっと「犬のように生きたい」と思ってた。
彼らは、他者をうらやむこともないし、卑下することもない。
他者からの評価を気にして苦しむこともない。
足が悪くて引きずりながら歩いているワンコも「なんて俺は哀れなんだ」なんてきっと思ってない。それはそれとしてすべて受け入れてる。
「あるがままでしか生きられないし、あるがままでいいんだ。」
そう気付いた。
無理をして他者の評価を気にするような生き方をしなくても、自分の心の赴くままに充実した人生が送れることに気づいた。
どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろ。
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